JX通信社マーケティングマネージャー・松本健太郎さんの書評連載第8回は、『アブダクション―仮説と発見の論理』(勁草書房)を取り上げます。
松本さんは常々「データだけを基に仮説を構築するのは難しい」「データは仮説を検証するために用いるもの」と指摘しています。大事なのは、先入観を排除して事実を事実のまま受け入れる「観察」であり、観察なくして仮説構築は成り立たないというわけです。
仮説構築力はマーケターにとって重要なスキルではありますが、その鍛え方は今ひとつ不明です。どうすれば、より身に付けやすくなるのか。今回は仮説構築において重要な「アブダクション」という思考法を考えます。
目次
★今月の一冊
アブダクション―仮説と発見の論理
著:米盛 裕二
この本を選んだ理由
筆者はミステリ小説が大好きで、これまで1000冊以上読んできました。それらを知識としてメタ化した経験は無いのですが、ちゃんとやれば「ミステリートリック専門家」は名乗れるぐらい様々な事件の構造を記憶しています。
ミステリ小説の醍醐味は、whodunit(誰がやったのか)、howdunit(どのようにやったのか)、whydunit(なぜやったのか)という大きなテーマを掲げ、それを解決するために様々な名探偵が活躍し、鮮やかな手法をもってフィナーレに導く点です。
特に、思わず「そんなことによく気付いたな!」と口にしたくなる小さな違和感から大胆な仮説を導くシーンには、全身がゾクゾクッとするような快感に襲われます。ミステリ小説は観察力、洞察力、仮説構築力、仮説検証力が詰め込まれた、彦摩呂風に言えば「論理学の宝石箱や〜」だと思うのです。
中でも、観察や洞察を通じて仮説を構築するプロセスは、ビジネスに置き換えて真似をしたいとすら考えています。マーケティングに限らず、ビジネスを強力に推進していく上で、仮説構築力は比較的上位にランクインする「仕事で求められる能力」です。「仮説」はやるべきことを半減し、注力ポイントを明らかにし、進むべき道を照らしてくれます。
一方で、だからこそ重宝されるのでしょうが、仮説構築力の”鍛え方”は明らかではありません。いわば「謎の筋肉」なのです。そこで今回は、仮説構築に焦点を当てて『アブダクション―仮説と発見の論理』を紹介します。
演繹法、帰納法、アブダクション
物事に対して正しい認識や判断を得るための論理的思考法として、一般的には演繹法と帰納法の2種類が挙げられます。いずれも「前提」と「結論」で構成されます。前提とはあらかじめ与えられた知識や情報、結論とは前提を論拠に下される最終的な判断のことです。すなわち、前提から結論に至るまでの形式や思考法の違いです。
(演繹法)
(前提)野菜には栄養がある。
(前提)ニンジンは野菜である。
(結論)ニンジンには栄養がある。
(帰納法)
(前提)ニンジンには栄養がある。
(前提)ジャガイモには栄養がある。
(結論)野菜には栄養がある。
演繹法は抽象から具体に、帰納法は具体から抽象にそれぞれ導かれるのが特徴です。つまり、何か仮説を求めたい際に、抽象度の高い前提から結論を導くか、具体度の高い前提から結論を導くかの違いです。
例えば、中高年層1000人にアンケートを取ったところ、不安に思っていることの第1位が「健康」でした。さらにあるECサイトのメインターゲットが中高年層で、購入されている商品が「青汁」だったなら、青汁が売れている理由は「健康のため」と仮説を立てるのも当然です。
例えば、ECサイトの「購入する」ボタンは緑色が多い。あのサイトも、あのサイトも緑色。なんだったらカーソルを重ねるとプルンッとなる。そうした事例をもとに、自社のECサイトのボタンは何が良いか考えると、「緑色で、カーソルを重ねるとプルンッとなるのが良いのではないか?」と仮説を立てるのも当然です。
しかし、いずれの仮説も「新発見」ではありません。よくよく考えれば自然と導かれる当たり前の結論とも言えます。チャールズ・S・パースは「帰納はなんら新しい観念を生み出すことはできない。同様に演繹にもできない」と表現しています。そして、パースは「科学の諸観念はすべてアブダクションによってもたらされる」とも言います。パース自身はアブダクションを単に「仮説」とも表現していて、これこそが「仮説構築」のための筋肉です。
例えばニュートンによる万有引力の法則の発見を考えましょう。
ニュートンは、リンゴが木から落ちる瞬間から「リンゴは木から落ちたのではなく、地球に引っ張られた」という、質量はたがいに引力を及ぼし合うという一般法則に至りました(実際にはリンゴの話は単なる寓話という説もあります)。
では、ニュートンはリンゴが落ち、牛乳がこぼれ、雨が降るのを見て「F = GMm/r^2」すなわち万有引力の法則を発見したのでしょうか。その論理は無理があります。物の落下をいかに繰り返し観察しても、直接には観察不可能な「引力」という作用の結論には至らないからです。
せいぜい帰納法で「木からリンゴが落ちた、コップを逆さまにすると牛乳がこぼれた、空から雨が降ってきた、すべての物体は支えられていない時に落下する」と明らかにできるだけで、落下することを説明できていません。
『アブダクション―仮説と発見の論理』では「こうした理論的対象の発見は観察データから直接的な帰納的一般化によって導かれるものではなく、それは諸物体の落下の現象を説明するために考え出された仮説による発見」と説明しています。
アブダクションの形式
アブダクションを、パースは次のように形式化しています。
驚くべき事実Cが観察される、
しかしもしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、
よって、Hが真であると考えるべき理由がある。
「H」こそ、驚くべき事実Cを説明するために考えられた「仮説」です。つまり、アブダクションは抽象と具体の行き来ではなく、観察から入るという点が特徴的です。パースは「人は諸現象を愚かにじろじろみつめることもできる。しかし想像力の働かないところでは、それらの現象はけっして合理的な仕方でたがいに関連づけられることはない」と言います。すなわち、違和感を抱いて観察しなければスルーされてしまう、観察力はすごく大事だとも言えます。
科学的な発見において大半を「ひらめき」と表現することもありますが、実際には事実Cを前に、そうであるとしか言いようがない仮説Hに気付いた、というのが正確な表現なのかもしれません。
ちなみに「ひらめき」は、頭の柔らかい人はできて、頭の固い人(あるいは賢いだけの人)はできない…と言われます。半分不正解で半分正解だと筆者は考えます。
不正解だと感じるのは、ひらめきがアブダクションならば、「観察」を通じて得られた驚くべき事実が分かれば、それを引き起こす原因を突き止めるのは「賢さ」が求められるからです。
正解だと感じるのは、その原因(H)には「正解であろう確率」は一切求められないにもかかわらず、賢さ故に「そうであろう確率が低いもの」を除去してしまう人が多いからです。検証をしてみないと分からないのに、自ら常識に縛られて可能性を絞り込んでいるとも言えます。
「仮説」とは、仮説構築と仮説検証に分かれます。なぜ構築と検証に分かれるのか、それは選択肢の拡張と絞り込みを別工程に分けないと、複数の案が出ないからだと筆者は考えます。
数字を見ているだけでは「新発見」には至らない
仮説の入り口は「観察」です。しかし、デジタルなマーケティングにおいては「数字」にあふれているが故に、消費者も製品の売れ行きについても「分かってしまう」のです。しかし、それらは数字にできる範囲において「分かる」に過ぎません。
なぜ中高年層なのに青汁を買わない人がいるのか。なぜ緑色のボタンなのに買わない人がいるのか。緑ボタンクリックのCTRが5%だったとして、その他の色のボタンクリックのCTRより3ポイント高いと言われても、それでも95%がクリックしていないのです。それら数字で表現できない何かは、観察しなければ仮説を持ちようがありません。数字的に弾き出された仮説に納得できないのはある種、当然なのです。
パースの言う「新発見」「新しい観念」こそ、私たちマーケターが切望していた「仮説」といえるでしょう。