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インタビュー

Microsoft 有園雄一が語る「AI時代のマーケターが“考えるプロ”として生きるために、知っておきたい2つの変数と“真・善・美”」

最終更新日:2025.10.23

The Marketing Native #80

Regional Vice President

Microsoft Advertising Japan

有園 雄一

生成AIが台頭し、アイデアの発想から広告運用、レポート作成に至るまで、マーケティングの領域はかつてないスピードで変化が見られます。

そんな中、「AIの進化で、考える力が退化するのでは」「マーケティングはAIにほぼ代替される」など不安の声も聞かれます。

AI時代に求められる「考える力」とはどんなことでしょうか。今回はMicrosoft Advertising Japan, Regional Vice Presidentの有園雄一さんをインタビュー。事故で生死をさまよった経験から、考え続けることを自らの習慣としてきた有園さんに、マーケターが「考えるプロ」として生きるために必要な視点を伺いました。

(取材・文:Marketing Native編集部・早川 巧、撮影:矢島 宏樹)

目次

病院のベッドで始まった「考えるしかない」日々の葛藤

――「AI時代の考える力」についてお伺いする前に、有園さんご自身は、これまでどのように「考える力」を培ってこられたのか教えてください。

まずは、少し真面目な話から始めさせてください。個人的なことになりますが、私は高校を卒業して間もない19歳のとき、タンクローリーに轢かれるという交通事故に遭いました。奇跡的に命は助かりましたが、幽体離脱のような体験もし、本当に死んでいてもおかしくない状況だったと思います。

その後しばらく入院生活を送りましたが、病院のベッドでできることといえば、考えることくらいしかありません。そのとき、よく頭に浮かんできたのは、「たとえ自分がこの事故で死んでいたとしても、世の中は何も変わらないのではないか」という考えでした。

それは私ひとりのことだけではありません。当時、イギリスではサッチャー首相、アメリカではレーガン大統領、そしてソ連(現ロシア)ではゴルバチョフ書記長がそれぞれ国のトップを務めていました。しかし、仮にその人たちが亡くなったとしても、世の中が大きく変わることはないだろう――そんなふうに思ったのです。

では、自分が生きていること、生きている価値とは一体何だろうか。実際は自分が生きていても死んでいても、それほど大きな違いはないのではないか――そう思いながら、なぜ自分は生き続けなければならないのかを考えてきました。「考える力が重要」という以前に、病院のベッドの上では、考えて、考えて、考え抜くことしかできなかったのです。

自分の生きる意味は何か。人類はなぜ存在しているのか。宇宙はどのように誕生し、何のために存在しているのか――そうした問いを考え抜き、自分の中で折り合いをつけなければ、生きていることが苦しくて仕方がなかった、そんな感覚でした。

――今は大丈夫ですか。

その後も、その感覚は自分の中の底辺にずっと存在しています。だからこそ、一つひとつの物事の意味を考えざるを得ないのです。なぜ生きるのか。なぜ食べるのか。なぜ排泄するのか。

仕事についても、自分なりに意味を考え、納得した上でインターネット広告という事業に向き合っています。普通の人よりは読書量も多いと思いますし、AIが人類にどのようなインパクトを与えるのかという点も含め、今もひたすら考え続けています。

したがって、「考える力をどのように培ってきたのか」という問いに対しての答えはこうです。「私は九死に一生を得る事故を経験したことで、一つひとつのことを考えずにはいられない人間になり、そのまま今も“考える”という癖が身についている」と。

人間だけにできる「考える」行為と、「真・善・美」の価値判断

――次に、AIが進化していく中で、人間が考える意味は、どのような形で残っていくとお考えですか。

それは非常に深いテーマですね。人間が考える意味…そもそも「考える」という行為は人間にしかできないのではないでしょうか。AIは人間のように主体的に考えているわけではありません。

私自身は技術の専門家ではありませんが、生成AIのLLM(大規模言語モデル)は、入力された言葉に対して「その後に続く可能性が高い言葉」を統計的に予測して出力しています。人間のように自ら思考し、答えを導き出しているわけではないのです。

ただし、膨大なデータから学習したパターンをもとに、文脈に沿った一貫性ある文章を生成できるため、一見すると推論や思考をしているように見えます。つまり、パターン認識や推論(統計的推定)で処理できる範囲のことについては、現状の生成AIでも十分に対応可能だと言えるでしょう。

しかし、世の中にはパターン認識や推論だけでは処理できないことが数多く存在します。生成AIがあたかも「考えている」ように見えるのは、人間の言葉に一定のパターンがあり、それをモデルが学習しているためです。その結果、次に続く言葉を統計的に予測してつなげることで、自然な会話が成立しているように感じられるのだと思います。

――「どう思う?」と聞くと、考えているかのように答えてくるので驚きます。

GoogleやマイクロソフトなどのIT企業は30年ほど前からAI研究に取り組んできましたが、生成AIは、いわゆる「真」(truth)、「善」(goodness)、「美」(beauty)のような価値判断を自律的に行うことはできません。例えば、フェイクニュースの真偽をAIはそのままでは判断できないのです。ただし、学習データや人間が与えたルールに基づいて「もっともらしい判断を模倣」することは可能です。

2017年1月、ドナルド・トランプ氏が第45代アメリカ大統領に就任した際、首都ワシントンD.C.で就任式が行われました。トランプ大統領は「就任式には150万人が集まった」と主張。一方、ある報道機関は実際の参加者数を約25万人と報じました。

このようなケースでは、AIはその場にいなかったため、どちらの数字が正しいかを直接判断はできません。仮に現場にいた第三者が撮影した写真があり、それがフェイクでなく、かつ提供者がトランプ陣営や報道機関に属さない独立した人物であるという前提が成り立つ場合にのみ、写真を解析して人数を推定することで、ある程度のファクトチェックが可能になるかもしれません。

しかし、AIがその場に存在していれば問題が解決するかといえば、必ずしもそうではありません。例えば「人だと思われる存在をセンサーが検知してカウントした」としても、カウントした情報が正しいとAIに定義づけをしなければ、AI自身には正しさの判断はできません。さらに、そのセンサー自体が恣意的に改竄され、人数を操作できる可能性もあります。そうなると、どこまでも情報の正しさを追いかけ続けることになり、終わりはありません。

人間であれば、実際に就任式に参加して人数を数えることで、ある程度の判断が可能です。しかしAIには、「これがtruth(真実)である」と最終的に確定する判断はできないのです。

同じように、「真・善・美」のうち「善」についても、AIが自ら何が善であるかを判断はできません。AIにできるのは、せいぜい「これは一般的に良いとされています」といった表現にとどまるものであり、善悪そのものの主体的な判断はできないのです。

また、「美」についても同様です。AIが「これは美しい絵画である」と判断するためには、「ピカソの絵画は美しい」などの参照情報をあらかじめ与えておく必要があります。そうでなければ、AIはピカソの絵画が美しいかどうかを自ら判断はできません。

一方で人間は、「多くの人がこの絵を嫌っているとしても、私はこの絵を美しいと感じ、好きだ」と、主観的で独自の判断を下すことができます。

このように、人間が持つ「意味づけ」や「価値判断」の力は、依然として非常に大きいと思います。

――なるほど。「真・善・美」を中心に、人間が考えることには大きな意味があるのですね。

意味があるというよりも、そもそも考えることができるのは人間だけです。例えば「生成AIの回答にはバイアスがかかっている」と言われることがありますが、その「バイアスがある」と判断しているのは人間です。どこまでいってもAIは価値判断を下すことはできません。価値判断を行い、答えを導き出すのは人間にしかできないことなのです。

AIが強い内生変数と、人間が担う非デジタルな外生変数

――次に、マーケターについてお聞きします。従来は、人間がロジカルシンキングなどによって行ってきた市場分析や戦略立案から、施策の実行、デジタル広告の運用、さらに効果検証に至るまで、今や生成AIに代行されつつあります。そのため「マーケターはもう不要になるのではないか」という見方もあります。これからのAI時代において、マーケターが考えるプロとして価値を発揮するためには、どうすればよいのでしょうか。

わかりやすく説明すると、マイクロソフトもGoogleも、他のIT企業もデータを収集していますが、もちろん「すべてのデータ」を網羅的に集めているわけではありません。ここで「内生変数」「外生変数」という言葉を使うとすれば、例えばマイクロソフトにはブラウザの Microsoft Edge があります。このEdgeの利用空間では、PCとスマートフォンの両方から多様な行動履歴データが得られ、それに基づいたプランニングが行われています。

さらに、ChatGPT や Copilot に代表される生成AIツールに収集したデータを入力すれば、仮説を立て、その上でマーケティングに役立つ提案を行うこともできます。場合によっては「四コマ漫画を作ってほしい」という依頼にも応じ、実際に四コマ漫画を生成することも可能です。

ただし、それはあくまでEdgeというブラウザ内で収集されるデータだけに基づいた行動分析にすぎません。よくあるケースとして、特定のターゲットに向けてテレビCMを放映すると、商品名や自社名などの指名検索キーワードの検索ボリュームが増えることがあります。その際に「CMを流したからこそ、特定の方向へ行動が促された結果だ」と説明されるのですが、実際にはここに因果関係を直接結びつけるデータは存在していません。

なぜなら、テレビCMそのものはインターネット上のデータとしては存在せず、Googleやマイクロソフトが直接収集できるものではないからです。

したがって、テレビCMがどれくらい放映され、どのような意味づけがなされ、どれくらいの人たちにリーチしているのかは直接的には把握できません。もちろん、Googleやマイクロソフトのサービス内では、検索ボリュームが急に増加したという「内生変数」にあたるデータは観測できます。一方で、テレビCMの投下量やその効果など「外生変数」にあたるデータについては、現状では収集できない状態にあります。そのため、AIがそうしたデータから自ら考慮して判断をすることはできません。

ChatGPTやCopilotなどが「東大理科Ⅲ類に合格できるレベル」「司法試験にも合格できる」と言われることがあります。しかし、それは膨大な情報を学習データとして取り込み、トレーニングされているからこそ可能なのです。つまり、ネット空間でデジタル化され、収集可能な情報についてはAIは答えを出せます。

一方で、デジタル化されていない「外生変数」にあたる情報は収集されておらず、そうした要素を含めた答えをAIは提示できません。したがって、AIが汎用的に人間の判断を完全に代替できる段階に至るのは、まだまだ先の話だと考えています。

――言われてみれば、私も日頃Webの世界にいるせいか、内生変数の中だけで考えがちでした。外生変数が絡むような場面としては、どんな例がありますか。

いわゆる「トロッコ問題」を例に挙げます。自動運転車がセンサーで周囲の状況を把握しながら走行しているとします。その先の進行方向には20代の女性がいて、このまま進めば轢いてしまう。そこで「人を轢くわけにはいかない」と判断してハンドルを切ると、今度は左側に60代の女性がいて、轢いてしまう可能性がある。逆に右に切れば、道路脇の壁に衝突して自分が死んでしまう――このような究極の選択を迫られたとき、現時点のAIに倫理的な価値判断を委ねることはできないのです。

これは極端な例ですが、実はマーケティングの世界にも、表現や訴求の仕方において同じような倫理的で正解のない判断がしばしば求められます。例えば「どのような表現なら適切とされるか」「問題が生じるとしたら、どんな表現か」――そうした微妙な匙加減の調整を行っているのが、プロのクリエイティブディレクターやマーケターです。一方、そのような高度な判断を下すレベルには、AIはまだ到達していません。

トロッコ問題に置き換えると、それは「真・善・美」のうちの善悪の問題です。例えば「年長者である60代を優先すべきなのか」「若い20代のほうが残りの寿命が長いと想定されるから、倫理的には60代を犠牲にすべきなのか」。そもそも、明確な答えを出せるのかどうか自体が難しい問いに対し、現時点のAIにはそのような倫理的判断を下すことは困難です。一方、マーケティングのプロは、業務においてこうした微妙な価値判断を踏まえながら、訴求の内容を決定しています。

AIは発想力を奪わない。「考える力」を拡張し、生産性を底上げする

――ありがとうございます。次に「発想力」についてお伺いします。最近では、AIに壁打ちをしながらアイデアを出し、それを固めていくという方法が私の周囲では一般的です。その結果、人間の発想力までもAI依存によって退化してしまうのではないかと懸念しているのですが、いかがでしょうか。

発想力は、むしろAIに依存すべきだと考えています。実際、私自身もそうしています。

――ほう、それはなぜでしょうか。

AIは壁打ちの相手になってくれるからです。もちろん、先ほど申し上げたように、すべての情報がAIに取り込まれているわけではありませんし、「真・善・美」などの価値判断ができるわけでもありません。しかし、「なるほど、そういう視点もあるのか」と気づかせてくれるヒントを返してくれますし、提案を比較的きれいに整理して提示してくれます。私はAIが出してきた提案を叩き台にし、自分なりに調べてさらに深掘りするというプロセスを繰り返しています。だからこそ、発想力に関してはAIを積極的に使うべきであり、考え方を深掘りし拡張するためにも大いに活用したほうがよいと考えています。

――わかりました。次に、AIの進化によって、人間の「考える力」の中で逆に強化されるものや、新たに加わる知的能力のようなものがあるとすれば、どのようなことだとお考えですか。

AIの進化によって衰えていく人間の能力という観点から申し上げると、それは「読み・書き・そろばん」のうちの「そろばん」に近いものだと思います。電卓が登場して、そろばんを使う人は減りました。さらにExcelが普及して、今度は電卓を使う人が減りました。そして今では、Excelに代わる、あるいはExcelを補完する形でAIが計算を担う時代になってきています。

その結果、「読み・書き・そろばん」の時代に比べれば暗算能力は低下したかもしれません。しかし、だからといって「そろばんを使えなくなったから日本人の計算力や数学的能力が下がった」とは言えません。つまり、失われていく能力があること自体はAIに限った話ではなく、私たちはそれを「危機」とは捉えていません。その時代の社会生活を営む上で退化しても支障のない能力に置き換えられてきた、ということだと思います。

一方で、新しく付加される能力についても同様に考えられます。例えば、識字率は江戸時代の寺子屋の普及や、明治時代の義務教育開始によって大きく向上しました。その結果、私たちは共通の言葉でコミュニケーションができるようになりました。私は鹿児島出身ですが、それ以前は「鹿児島弁と江戸の言葉は違うため、意思疎通が難しい」という状況がありました。しかし標準語が広まり、共通の知識基盤をもとに意見交換ができるようになったことで、知識の共有が進み、国全体の発展につながっていきました。この点は、現在のAIの状況に少し似ていると思います。

今では、Excelで手作業的に処理していた計算式がAIによって一瞬で実行できるようになったり、執筆に時間がかかっていた文章がAIによって即座に生成されたりするようになりました。こうした機能が個人だけでなく社会全体で標準化されていけば、それだけ社会の知的生産性は大きく向上するはずです。私は、それが新しく加わる能力だと考えています。

――そうすると、AIによって能力が退化することを過剰に心配する必要はなく、社会の標準的なインフラとしてAIを活用すればよい、ということですね。

ただし、廃れていく仕事は出てくるでしょう。それはパターン認識と推論によって解決できる仕事です。例えば、T型フォードが登場したのは1908年ですが、その後ニューヨークでは馬車の仕事が急速に減少しました。一方で、新しくタクシードライバーという職業が生まれました。これと同じように、生成AIの登場によって廃れるのは、パターン認識と推論だけで済んでしまう仕事です。また、同じ仕事の中でも、そうした部分の業務は徐々に代替されていくでしょう。

マーケティング、広告はなぜ「神聖な仕事」なのか

――最後に、マーケターが生成AIの時代に「考えるプロ」として成長していくために、日々意識すべきことや学び方についてアドバイスをお願いします。

自分の仕事にどんな意味があるのかを考えるべきだと思います。自分の仕事の意味を見つめ直し、歴史的な背景や世界的な流れの中で位置づけた上で、考えに考え抜き、最終的には自分の直感を信じるのが良いのではないでしょうか。

新約聖書に「初めに言葉ありき」(In the beginning was the Word)という一節があります。言葉や動画などの表現活動は、人間にとって非常に重要であり、私はそれを「神聖な仕事」だと捉えています。なぜなら、言葉や映像、そしてお金といったメディアは、いずれも「意味を運ぶ」ものだからです。意味を運ぶからこそ、「美しい言葉を正しく使おう」という考え方が生まれ、逆に「汚い言葉やフェイクの言葉は使わないほうがいい」との価値観も生まれます。「初めに言葉ありき」であるように、表現は人間社会における価値観や意味の形成に直結しているのです。

マーケティングや広告の仕事は、ネガティブな要素をそのままネガティブに伝えるのではなく、ポジティブに転換して表現できる点に特徴があります。実際の商品やサービスにネガティブな側面があるかもしれませんが、優れた点に光を当て、「こんなに素晴らしいのです」とポジティブに発信することが、大きな役割のひとつです。

ネガティブな要素をポジティブに変えて表現する――そうした「言葉を扱う仕事」である広告表現は、表現の自由のもとに成り立っています。しかし戦時中には、広告表現の自由が大きく制限されていました。メーカーの中には経済活動の自由を奪われ、軍需品の製造を強いられた企業も少なくありません。

人類の進歩に寄与してきたテクノロジーの進化が戦争に悪用され、さらに表現の自由や経済活動の自由まで制限されていた時代があったのです。そうした歴史を踏まえると、テクノロジーの自由・表現の自由・経済活動の自由が交わるところに位置するマーケティングや広告の仕事は、極めて意義深く、ある意味「神聖な仕事」であると私は考えます。一方、こうしたことをAIが自ら考えることはありません。

だからこそ、マーケティングや広告の仕事に携わる方々が、自分の仕事の意義を自分なりに理解し、納得して腹落ちしていれば、「何を学べばよいのか」「日々どのように意識して仕事をすればよいのか」「AI時代に“考えるプロ”としてどう生きればよいのか」といったことに、過度に悩む必要などないのではないかと思います。なぜなら、AIにはまだできないことが数多く残されているからです。

言葉もお金も、社会の中で循環しています。私が発した言葉を他者が理解できるのは、私たちが一定の共通理解を持ち、お互いに支え合っているからです。「私」という音が「私」という存在を指すのだと、互いに承認しているからこそ成り立っています。

お金についても同じです。お金は不正に使うこともできれば、子どもや社員に愛情を注ぐために用いることもできます。すべては循環していくのです。1万円札の価値も「これは1万円の価値がある」と人々が相互に承認しているからこそ流通し、循環していきます。

このような循環構造の中で、できるだけ良い循環を生み出していくことが大切です。その意味で、表現の自由・経済活動の自由・テクノロジーの自由が交わる地点に位置するマーケティングや広告の仕事は、社会により良い価値を循環させ、提供していく根幹を担うものだと考えています。そして、デジタルやITの領域であるネット広告やデジタルマーケティングもまた、極めて意義深く、ある意味「神聖な仕事」であると思います。

そうした自分なりの覚悟があれば、AIに負けることはありませんし、自分の内面にブレない軸があれば、次に何を学ぶべきかも自ずと見えてくるはずです。この世界に生まれ、いつか死を迎えるそのときまでに、自分が何を残していきたいのかを考えていれば、AIについて悩む必要など、もはやないのではないでしょうか。少なくとも、私はAIを単なる道具のひとつとしてしか見ていません。

――本日はありがとうございました。

Profile
有園 雄一(ありぞの・ゆういち)
Microsoft Advertising Japan, Regional Vice President。
早稲田大学政治経済学部卒。1995年、学部生時代に執筆した「貨幣の複数性」(卒業論文)が「現代思想」(青土社 1995年9月 貨幣とナショナリズム<特集>)で出版される。2004年、日本初のマス連動施策を考案。テレビCMに検索キーワードを挿入することを提案し、2004年9月に日本で最初にトヨタ自動車「イスト」CMで採用される。2014年、Dual AISAS Modelを提唱。

オーバーチュア株式会社(現ヤフー株式会社)、 グーグル株式会社、株式会社電通デジタル客員エグゼクティブコンサルタント、アタラ合同会社フェロー、株式会社電通 電通総研 カウンセル兼フェロー、株式会社ビービット マーケティング責任者、電通総研パートナー・プロデューサーなど歴任。現在、zonari合同会社 代表執行役社長も務める。

著書は『運用型広告 プロの思考回路』(KADOKAWA/アスキー・メディアワークス)、『ザ・アドテクノロジー』(翔泳社)、『アトリビューション』(インプレス)、『リスティング広告 プロの思考回路』(角川アスキー総合研究所)、『カスタマー・エクスペリエンス戦略』(日本経済新聞出版社)など。

 

記事執筆者

早川巧

株式会社CINC社員編集者。新聞記者→雑誌編集者→Marketing Editor & Writer。物を書いて30年。
X:@hayakawaMN
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